


今から400年以前の古文書が、風化されることなく当神社に保存されてきたことは、不思議でなりません。川中島での決戦を前に武田信玄が必勝を祈った「願文」や家臣団に忠誠を誓わせた「起請文」、また、真田昌幸、信幸父子の「朱印状」など数多くの文書が残っています。
天文22年(1553年)、東信濃を攻略した武田信玄はまず当神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2年(1559年)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。
信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566年~1567年)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。

武田信豊起請文 :
武田信玄が支配下の諸将を当神社に集め、改めて忠誠を誓わせた起請文を差し出させた背景には、長子義信との不和が生じたことにより統制の強化を計る必要があったためと思われます。文書は熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん、からすの図柄)の護符に書かれ、文書はいずれも忠誠を誓っている前書きと誓いを破った場合には神仏の罰を被るべき神文とからなっており、各署名下に花押と血判を押したものが多くみられます。起請文差し出しの武将は東・北・中・南信濃、甲斐、上野(現在の群馬県)の237名にもおよんでいます。

武田信玄願文 :
越後の上杉謙信(長尾影虎)との対決を覚悟していた武田信玄は当神社に願文を捧げ勝利を祈願しました。信玄自筆といわれる「願文」は、(縦158mm×横308mm)の烏の子紙に記されたものです。

室賀信俊起請文 :
室賀氏は室賀城(上田市室賀)が本拠で、天文22年塩田城に拠った村上義清が敗れたとき、信玄に降りました。

真田信幸朱印状 :
上田城主の真田信幸は「定書」をして神主工藤長七郎に宛てた朱印状です。信幸は慶長15年(1610)、摂社・諏訪神社本殿を再建し寄進しています。

真田昌幸朱印状 :
この文書は、昌幸が上田城築後の天正14年(1586)頃のものと考えられます。